邦画

『花束みたいな恋をした』ネタバレ感想 運命めいた恋を描いた名作

こんにちは、sai(@saichans_b)です。

こんなご時世でもあって久しぶりに映画館に足を運びましたが、考えてみれば去年の年末に観た『ジョゼと虎と魚たち』以来ですね。つまり『花束みたいな恋をした』が今年初の映画館でした。

結論からいいますと、とても名作でした。もう一度観たいと思える作品に出会えるのはとても幸せなことですね。

最初の方はコミカルに、次第にシリアスさと切なさを帯びていく。だけど観終わった時には心が軽くなる描き方だったように思います。シリアスさの中に時折差し込むユーモア。二人の楽しさも悲しみも辛さも、包み込むように伝わってきました。

 

観る前にツイッターで流れてきた感想には「サブカル」「実在する固有名詞」「共感」みたいな言葉が溢れていたのでなんとなく想像はできてたけど、確かに実在する映画や音楽、本や芸人等のエンタメワードが盛りだくさんに出てきました。鑑賞者の思い出や記憶が呼び起こされる。「──これはきっと、私たちの物語」と公式HPで謳われているのもわかります。

印象に残った点をいくつかネタバレありで書いていくので、未読の方はご注意ください。

『花束みたいな恋をした』本予告

 

菅田将暉と有村架純の演技力が化け物

一番印象的だったのは何と言っても主演の二人の演技力。菅田将暉、有村架純、マジで化け物かと思った。特に痺れたのは、絹(有村架純)が転職の話を麦(菅田将暉)に切り出して喧嘩するシーン。この時の有村架純は何回でも観たい。

 

転職を麦に内緒で進めていた絹は既に今の会社に辞めることを伝えていて、次のイベント会社の仕事も実はもう教わったりしていることを告げる。何も聞いていなかった麦は怒り、絹の次の会社を「遊びじゃん」「ダサい」と切り捨てる。当然絹だってムッとするけどそれを表情に出さないように堪え、「遊び…かもしれないけど、それも売りなんだ。仕事は遊び、遊びは仕事」「ダサいけど、やってみなくちゃわからないし」と、麦の言葉をどれも一度飲み込み、無理に笑いながら衝突しないよう言葉を選ぶ。

 

何も話していなかった負い目があったのもあり、ここで真っ向からぶつかると麦との関係に決定的に亀裂が入るという心情からだと思うんですけど、この時の有村架純は本当に神だった。間といい表情といい、これが演技で出来るなんて凄すぎる。このシーンは何らかの賞を受賞していないとおかしい。「仕事は遊び、遊びは仕事」と手を動かしながら口角上げて話していた時の有村架純の表情、間違いなく個人的ベストアクトです。

 

二人の喧嘩のシーンは他にもあるんですけど、考えてみれば最初の喧嘩から最高でした。初めて出会った夜に居酒屋でむちゃくちゃ共通の趣味で盛り上がって、絹がトイレに行ってる間に麦の友人らが偶然やってきて、一時的とはいえそっちのテーブルに行ってしまう。それを見た絹の空気。

 

疎外感と裏切りが入り混じる感情を押し殺して、いやまったく押し殺さず、さっきまで笑顔で話していた人とは別人のように関係を一瞬で無に帰すようにさっさとお会計して立ち去ろうとする空気。友人らに「チッス」と挨拶して帰る絹。これは完全に強がりと怒りと哀しみと痛みが凝縮された「チッス」でした。麦とはずっと敬語で話してたっていうのに、最後「チッス」って、ほんとやさぐれてて強がってないと出てこないですよ。

 

追いかけた麦、マジで偉い。大学のかわいい子から「麦くんとちゃんと話したいと思ってたんだ」って目を見て言われた強烈な誘惑を振りほどいてきましたから。一目置きましたよさすがに僕は。絹がこれから友人の家に泊まるというのを

麦「そんなの嘘だってわかります」

絹「ふざけんなし」

と感情が暴発しかけながらトイレットペーパー取り合ってたシーンも、最高でした。喧嘩のシーンが一番強いかもしれない。そしてそのあと麦制作のガスタンクの映画見にいくことになる愛しさよ。なんでガスタンク。

 

運命めいた共通のサブカル趣味

麦と絹は驚くほど好きなものが同じです。なんなら靴も服も同じです。これほど同じものを好きになる人がいるなんて、と運命だと思うのも無理はないくらいに同じです。

 

二人とも行けなかった天竺鼠のライブチケットを持って、麦が「じゃあこれは今日会うためのチケットだったんですね」なんて運命めいたセリフをさらっと吐いたり、かといえば絹が麦の本棚を眺めて「ほぼうちの本棚じゃん」とさらっと返したりって、この運命のキャッチボールがね、ほんとすごい。あー、そういう球種も持ってるの? じゃあまぁ、こっちはこういうのもあるけど?って運命をすごい軽く投げあってんの。

 

まぁ僕からしてみれば、一つだけ言いたいのは、まぁこれを言ったら野暮だけれども、どうしても言いたいのは、天竺鼠のライブ、行けよって

 

なーにが「じゃあこれは今日会うためのチケットだったんですね」じゃ。本当に天竺鼠好きだったら楽しみにしてライブの日忘れるわけないし、絹も一回デートした謎の男に捕まって焼肉食いにいかないし。なにをライブより優先してるの!! てか終電間際まで焼肉食ってんじゃないよ! 胃、だいじょうぶ!?もたれてない!?!? って思ったんですけども、まぁでもその天竺鼠の蔑ろ感のおかげで二人は運命の出会いを果たせたわけですから、ほんと麦と絹はね、一回天竺鼠に土下座しといたほうがいいと思う。

 

あと、なんかお互い読みかけの文庫本を取り出して、頭下げながらどうぞって交換して、本めくって「あ、これいいですよね」みたいな言い交わしあうやつ、あ、あれはいったい…? カルチャー界隈にはああいう儀式みたいなものがあるんですか…?

 

でこれは多くの人も書いてるけど、麦が押井守を知らない人を下に見たり、じゃんけんの石は紙を破くってくだりだったり、ワンオクを「聴けます」って引っかかる言い方したり、”大衆ウケには乗らない俺は特殊で尊い感”がにじみ出てる。にじみ出てるって言うか、もう自ら出しちゃってる。

 

でもこれはね、わかる

麦、わかるよ俺。僕もそんなとこありますから。サブカルというか、マイナーなもの好きな自分にちょっと酔っちゃうとこ、あるよね。あるんよ。誰だって一度はそういう道を通るんよ。だから、うん、別に君だけじゃないんよ、麦。でもそういう事実を知っていって、一歩ずつ大人の階段を登るんじゃないかな。

 

ほら、階段は目の前さ、さぁ一緒に地獄の階段登ってこ…?

現状維持するための生活。始まるすれ違い。

というわけで大人の階段を登り始めた麦は、就職します。就職して、めっちゃ働きます。まぁ実際には、イラストレーターの仕事で極悪搾取を受けて現実の厳しさに打ちのめされたからですが。

 

絹と初めて出会った夜に「麦くんの絵、好きだよ」と言われたことがとてつもなく嬉しくて、そのまま大学を卒業後イラストレーターの道を歩んだのはいいけども、収入が安定しないからそれ一本ではかなり厳しい。

 

だから就職しました。

「僕の目標は、絹ちゃんとの現状維持です」

といつか爽やかにドヤってましたけど、現状維持するために就職しました。その時いや現状維持かーいって思ったのは僕だけですか。更なる高みを目指さんのかい。

 

麦は仕事に段々のめり込んでいきます。イラストレーター時代にはなかった安定があり、キツくてもやれば認められ、働くことに責任感も芽生え、次第に余裕がなくなり仕事に没頭し絹との共通点だった本も読まず音楽も聴かなくなる。「生きることは責任」と誰かが言った言葉を呪文のように唱え、空き時間にすることといったらパズドラのみ。絹が貸してくれた本も読まず、一緒にいく予定だった舞台にも興味を持てず、哀れなり麦。気持ちはわかるけどね。

 

パーカーはスーツに変わり、シューズは革靴に変わり、共通の感性さえも世間一般の流行り(パズドラ)に埋没していく。麦と絹の別れは時間の問題であり、必然でした。

 

僕はね、同じ趣味・価値観・感性を持つ人とは、恋愛ではなく友人関係の方がうまくいくと思っているから、最初から二人は別れるんだろうなーと思っていたけど、でもやっぱり最後は切なかった。互いに「別れ」の話題だとわかっているあの空気が。一緒に過ごしてきた時間や思い出が込み上げてきて、麦が別れを躊躇う気持ちもわかる。そのあとに入ってきた若い二人に自分たちを投影して泣き出してしまうところも、やっぱり切ない。

 

でも別れることが決まってもなんだかんだ家族みたいに過ごしていた時間は、とても愛しく幸せそうだったな。

始まりと終わりのストリートビュー

別れは切ないけれど、鑑賞後感がどんよりしないのは最後のストリートビューのおかげだと思ってます。

 

まず、始まりもストリートビューでした。麦が「燃え尽き症候群」というからどんなことを成し遂げたのかと期待したら、なんてことはない。偶然ストリートビューに麦が映っていたことを大騒ぎしていただけでした。これはどう考えたって大騒ぎするほどのものではない。学校の連中に「これ、俺!」とドヤ顔で自慢するほどのものでは絶対にない。テンション上がって「すげえ!」と言ってくれる友人に気分が良くなって奢ってやるほどのものではけしてない。仮に僕が友人にそんなこと自慢されたら、「え、あ、おお、ほんとだな」くらいの塩対応かます自信ある。

 

最後も多摩川沿いを歩いていた二人のストリートビューで締められました。六年ぶりの再開。でもこの終わり方はとても良かった。二人は結局良い別れ方をしたから、映っていた自分たちを見て嬉しい気持ちになれたんだな。

 

ところで『花束みたいな恋』とは何だったの?

こんな名作のタイトルになった『花束みたいな恋』とは、結局何だったのか。映画を観たらわかるのかと思っていたけど、皆さん、意味、わかりました? 僕はね、全然わからなかった。 だから考えてみたんですよ。

まず「花束」は、花の束だと思うけれど、一応念の為辞書で引いたら、「花を何本か束ねたもの」って書いてありました。そのままでした。これをそのまま言い換えると、

「花束みたいな恋」=「花を何本か束ねたみたいな恋」

になるわけですね。うん、ちょっと具体的になったかな。いや全然わかんねーな。

 

あとヒントとなることといえば、作中で絹が「女の子が男の子に花の名前を教えると、その花を見るたびに女の子のことを思い出しちゃうんだって」と言います。その時の花はマーガレットでしたが、結局絹は麦に花の名前を教えていません。なぜ教えなかったのか。

 

先ほどの絹のセリフは、男女の別れを前提としたものです。絹には恋愛ブロガーめいさんがテーマとしていた「始まりは終わりの始まり」が強い印象として頭に残っています。麦との恋も、いつかは終わるものだと心のどこかで感じていたのかもしれない。永遠なんてないことを知っていた絹だからこそ、あえて教えなかったのでしょう。そしてその考えは麦も同様にあります。

 

麦は写真家の先輩とその彼女に対して、「カップルで同じタトゥー入れたら別れた時気まずいよな」と言っています。もちろん絹も同調します。実際別れた時も同じことを言い合っていました。別れた時のことを考えておくという思考は、さすが麦も絹も同じなのです。

 

二人ももう良い大人ですから、生きていれば、物事がいつか終わることは経験としてわかっています。絹が愛読していた恋愛ブロガーのめいさんも、麦が尊敬していた写真家の先輩も、命を落としてしまう。始まりは終わりの始まりが、自分たちの周りで色濃く経験になっていく。

 

そうだとしても、二人が積み重ねてきたものは沢山あります。二人の感性だったからこそ見えた景色があったでしょう。一人で観るより、二人で観る方が何倍も楽しかったことと思う。結果的に麦は仕事に余裕を奪われて感性が変わっていくけれど、共有してきた一つ一つの思い出は、花のように美しかったんじゃないかな。

 

マーガレットの花言葉は「真実の愛」。

二人が束にしてきた思い出は、紛れもなく真実の愛だったと思う。そんな一つ一つを、束にしてきた恋だった。だから「花束みたいな恋」。

やや強引な感じが否めませんが、悪くないと思うので以上で終わります。もう一回観にいこうかな。

 

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